生活になじむコーヒー

名刺の枚数、「ともだち」の数だけが財産ではない。

人もコーヒーも、深く付き合ってみないと得られない気持ちがある。長く一緒に居ないと気付かないことがある。様々な選択肢が増え、簡単に大量の情報を得られるようになって、切り捨てるスピードが速くなっているように思える。批評家になる必要はない。こんな時代だからこそ、ひとつくらい腰を据えて、ゆっくりと付き合ってみるのはいかが?

余白珈琲では、取り扱う豆の種類を極端に少なくしている。広い世界には、もっと色々なコーヒーがあるのは百も承知。それよりも、愛着や深みを大切にしたい。

コーヒーは、農作物だ。生産国や品種で特徴が分けられたとしても、毎度表情が異なる。同じ豆であっても、同じ畑であっても、同じ風味には二度と出逢うことができない。

そして、焙煎後の移ろいもある。焼きたての豆は、若さと勢いがある。数日経つと、落ち着きが出てくる。味も香りも、空気になじむ。角が取れて、円みを帯びる。焼き方によって、十日後が好きな時もあれば、二十日後が好きな時もある。散る間際に見せる滋味深さも、なんだか良いものだ。

さらに、ドリップ。味に気持ちが出るというのは、結構当たっている。急いでいる時、イライラしている時、穏やかな時、ニヤニヤしている時。人間がつくるものなんて、受け取る側の解像度を上げて見れば、毎日違うものだ。身体の調子によっても変わるし、夏と冬とでは求める味も変わる。

新しいものを探し続けることは、たしかに楽しいことかもしれない。でも、同じだと思っていた対象から、新たな一面を発見した時、これはもっと愉しい。それには時間がかかるし、長い付き合いが必要。簡単に得られるものは、簡単に逃げていく。

生活も同じだ。誰かの暮らしに憧れて、いつも新しい情報に影響を受け、「ここではないどこか」ばかり見て、「自分さがし」を続ける生活は、たしかに刺激的かもしれない。でも、どうにもならない自分を引き受け、日々の移ろいに身を寄せ、小さな発見を愉しむ生活も悪くない。身の丈に合った生活は、実感の連続だ。ひとつひとつ、ひと日ひと日に輪郭がある。

などと大きなことを書いたが、せめてコーヒーくらい、好きなものを愛しましょうよ、ということだ。愛着の湧く日々は、小さな自分の手を見つめることからだ。