余白珈琲

余白珈琲のこれから(元中日・英智選手ばりの大遠投)

ひと月に1度、豆を買いに来てくださる大学生のお客さんがいる。インドについて勉強しているらしいので、コーヒーを淹れてあげるかわりに、ヒンディー語をかるーく教えてもらっている。知らないことを知ると、ちょっとだけ愉しい。何より、役に立ちそうもないことに使う時間は、なんだかとても豊かだ。

毎度毎度、来月までに上達して、「え!いつの間に!」と驚かせてやろうと思ったりするのだが、結局、ひとつの単語を覚えることもなく当日を迎えてしまう。それこそ、「え!いつの間に!」で、1ヶ月というのは、本当にあっという間だ。

「もう今年も半分過ぎた」「もう年の瀬か」、歳を重ねていく中で、何度そう感じたことか。そして、自分の実感だけでなく、何度このセリフを耳にしたことか。時の流れは本当にはやい、きっと多くの人が感じていることなのだろう。

昔は、それが焦りに繋がることもあった。自分はお店をするのだから、学費も時間も勿体ないと、大学をすぐに辞めた。何年か飲食店で働いた後に独立しようと思ったが、社員として雇ってくれるところが見つからなかった。面接では何度も、中退したことに対する、考え方の甘さを指摘された。仕方なく、フリーターを続けたが、あっという間に同学年の大学生が卒業して、就職をする年齢になった。周りに「社会人」が溢れていく中、開業も叶わず、就職もできず、自分はいつまで「フリーター」なのだろうかと、悶々とした。

23歳の時、焙煎機を買った。夜勤明けの始発電車、半ばヤケっぱち、衝動買いだ。開業資金をすべて貯めるなんて、待てなかったのだ。

はじめ、「お店がやりたい」と思い描いた時、それはカフェや喫茶店だった。自分を表現したかったのかもしれないし、自分以外の誰かになりたかったのかもしれない。

ただ、先走って焙煎機を買ってしまった以上、まずはできることをやらなければ。そうやって必死になっている間に、「余白珈琲」として少しずつ仕事をいただくことができるようになり、今に至る。おかげさまで、夫婦ふたり、なんとか健やかに暮らすことができている。もちろん色々、本当に色々とあったのだが、あっという間だった。

そして、不思議な感覚に陥る。いつの間にか、夢であったはずのカフェや喫茶店というものが、頭の中で薄れていき、ほとんど消えていたのだ。「これからどうしたいの?」という質問(よく聞かれる)に、うまく答えることができない。余白珈琲のこれから、ん~、わからない。

毎日毎日、大切にしたいことを大切にできる範囲で、愉快に必死に生きる。もちろん、落ち込む瞬間も、不安になる瞬間もある。嫌なニュースに、嫌な気持ちになることもある。めちゃくちゃな人に、憤ることもある。ぼーっとしている時も、熱を帯びている時もある。あれもこれも、全部織り込んで、1日1日。そうやって過ごしていると、多くの人が知っているように、あっという間に1年や2年の月日が過ぎる。

だから、近い将来のことを考えることを止めた。成長とか、そういうものから降りた。そのかわり、100年先のことを考えてみるようになった。おそらく、自分たちは死んでいる。そんな未来の世の中でも、胸を張って愛することができるもの。今、大切にしたいものを決める時には、その感覚を持っていたいと思うようになった。

時々、スポットライトを遠く遠くへ。元中日ドラゴンズ・英智選手ばりの大遠投。遠くを眺めるのは、とてもいい。固執していた輪郭がボヤけて、すべてが曖昧になり、その中から小さな煌めきを探すようになる。近くの騒音が、やがて遠のき、静寂の中から小さな声を拾うようになる。

遠く遠く、小さいけれど、確かに在るもの。その感触をたよりに、また今日を重ねる。これは、「今が楽しければ、それでいい」という感覚とは全く異なる、もっと健全なものだ。その結果、どこに行き着くことになるのか、それはもう本当に分からないし、まあどこでもいいやと思う。

社会は、大きく変わるだろうか。あるいは、あんまり変わらないだろうか。壊してしまうことだけは避けたい。

ひとまず、僕らは今日もせっせと豆を届け、おいしい時間ににんまりしながら、他愛もない会話を愉しんでいる。目の前と、遠く先を見ている。