余白珈琲

ため息を、ほっとひと息に。

Category: 雑文集 (page 1 of 2)

食と小商い

 

先日、shizukagohanの大野さんと一緒に、コーヒーを飲みながら色々と話しました。

芸術家の人たちが、拠点を共有して何かを制作するように、食に特化したシェア・アトリエが作れたら面白そうだね、と。「まっとう」な食を仕事にしたいと活動する人たちを集めて。

本当は、「食」はこんなにもビジネスになってはいけない分野だったのだろうなと思います。法律にはかからないけれど、それって偽装じゃないかなと思うことなんて、一度この業界で働くと本当に多いのです。そして、業界の風習になると、抜け道を歩いていることにすら気づかない人たちもたくさん出てきてしまいます。

最近では、「エシカル(倫理的な)」がビジネスのキーワードなので、とりあえず生産者の顔写真を載せてみたり、名前を書いてみたり、環境にやさしい風なことを言ってみたり。健康風も流行ります。

せっかくの「良いこと」も、すぐに「良い風のこと」が追っかけてきて、何が何やら分からなくなる。安心・安全が「付加価値」になってしまっていることが、状況を悪化させてしまう。利潤追求のシステムがある限り、売れるものは、常にターゲットになるのです。

でも、こういう現状を批判し、対抗するのは違うねと。それで生活が成り立っている人ももちろんいるし、何が正しいかは分からない。それに、対抗することは、同じ土俵に立つことなのです。つまり、そこで勝ったとしても、行き着く先は結局同じ。

だから、批判も対抗もせず、土俵から降りて、小さな別の仕組みを動かしていく必要があります。

その仕組みは、利潤追求のシステムが、見向きもしない仕組みでなければいけません。なぜなら、「儲かる」と分かれば、すぐにそれを装うものが溢れるからです。

ただただ小さくやることでもなく、好きなことを仕事にするわけでもなく。生きてはいけるけどトントンで、規模は成長しないし利潤も生まないけれど、「まっとう」に、居場所を感じながら続けられる。

平川克美さんの著書で出逢った「小商い」とは、そういうことだと解釈しています。

そんな色々を、これからの「食」を、共に考え、学び合い、生産できるようなアトリエがあれば面白い。

僕はコーヒーのことしかできないからこそ、同じような想いを持つ人たちと補い合いながら、「まっとう」を探したいのです。

 

 

とんかつを食べながら想った

 

井川直子さんの「昭和の店に惹かれる理由」を読んで、必ず行くと決めていたとんかつ屋さん「とんき」へ。

すべてが心地良い。

サービスだなんて言葉が、かえって似合わないほどに、ここで働くすべての人が、当たり前のように心地良さを添えてくれる。

そして、ここにあるすべての物が、きちんと宛先を向いている。

今、僕は27歳で、様々な仕事を通して出逢っている方々のほとんどが歳上で、皆さんまるで親のように温かくしてくださる。

また、大切なものを大切にしてきた、素敵なお店から、その姿勢を学ばせていただくことも多々ある。

きっと「恩」は返すものなのだろうけど、こうして今、前を生きてきた人から受け取っているものは「贈り物」で、僕はそれを大切に磨き、次の世代へと贈るように努めるべきなのだろう。

これは本当に親子のような関係。

最大の親孝行は、親に恩を返すことではなく、別の誰かにその温かさを渡していくことなのかもしれない。

 

並のはやさ

 

先日、ふらっと寄った喫茶店のテーブルの上に置いてあった団扇。

数年前の夏祭りで配られたものみたいで、そこだけ時間が止まっていました。

どちらかと言えば、古い音楽や古い物が好きなのですが、そういう類のものが持つ穏やかさや安堵感は、きっと「無理に進まなくていい」というメッセージを含んでいるから、そんな気がします。

馬術において、馬を普通のスピード(常歩)で進ませることを「地道」といいます。

基本中の基本ながら、最も大切で最も難しいそうです。

駆け抜けても、歩いても、時の流れ以上には進めないのですから、ひとつひとつ踏みしめながら。

コーヒーでも飲んで、並のペースで。

 

心地良いこだわり

 

大切にしていることを大切にすることと、あらゆる物事に対する「こだわり」が少しずつ外れていくことが、自分の中で共存できている時、きっと心地良い生き方をしているのだろう。

度胸が必要です

 

且緩々、しゃかんかん。

禅の言葉で、「まあ、そんなに焦るなよ」という意味です。

ふと気がつくと、ほんの少し先ばかり生きているものです。常に「今」を欠いた人生になりがちです。

先を急がず、今を流さない。肩の力を緩めて、ゆっくりと生きる度胸。

雨の夕暮れ

 

雨が降ろうが、嫌なことがあろうが、前向きな気持ちは守らねばならぬものです。

ポジティブな人とネガティブな人との2つに綺麗に分かれるわけではなく、ひとりの人間の中にその両方があり、ネガティブな気持ちを呼び起こす人や物事も多く存在するものですが、それでも前向きさは守らねばならぬものです。

どちらかと言えば、人の前向きさに触れるコーヒーを焼いていたいものです。

 

ひとには模様があるらしい

 

自分の焼いたコーヒーを、「あー、美味しいなー。」「あー、良いなー。」と穏やかに愉しむ時間がとても好きです。

そして、その時間は必ず、また次に焼くコーヒーの味に良い影響を与えてくれます。

どんな気持ちで、どんな時間を過ごしているか。

その重なりは、やがてその人の外側、社会との接点に表れます。

「人柄」と言うくらいですから、模様として外に表れます。

だから、「本当の自分」が在るとしたら、その模様のことだと思うのです。

社会との接点とは、例えば表情や仕草、言葉、仕事や作るもの、もちろんコーヒー豆も。

そしてその模様は、また別の誰かが過ごす時間の一部となり、その人の模様のひと塗りとなり、社会を巡ります。

 

有限の仕事

 

春めく街の写真を撮った。

有限のフィルムから、無限のデータに進化した写真。きれいだし、とても便利だけど、何枚でも削除できるし、撮り直しできる中では、一枚の記憶なんてほとんど残らないなとも思ったり。

焙煎機もコンピュータ制御できるものが多くなってきています。

職人的な勘の世界を抜け出すことで、誰でもいつでも確実に、同じ美味しさを届けられるわけですから、これ自体はとても合理的で、とても良いことなのです。「誰でも」という部分は、ビジネスが発展していく上で必要なことでもあります。

ですが、多くの物事がそうであるように、そういう種類の発展には、同時に失われていく何かが存在します。

それは味がどうこうとかではありません。美味しさの問題ではありません。

ただただ、有限である人間が、取り替え可能な無限の存在になっていくことで、薄れていく重みのようなものです。数値化できない何か。

そういった、一回一回、ひとりひとりの記憶が削ぎ落とされた「無限の仕事」が出回り溢れる社会は、なんとなく嫌なので、小さく抵抗するように、有限の仕事を贈り続けたいものです。

 

「あー、これこれ」

 

日に何度か、コーヒーが飲みたくなります。

その度、「あー、これこれ」と思わせてくれるコーヒーが、個人的には好きです。

どんなことでも、「あー、これこれ」は幸せですね。

宛先

 

お店を営む、会社をつくるということは、どのような社会で在りたいのかという意思表示にも似ており、そこで働いたり、何かを購入したりすることは、それに対する一種の投票のようなものでもあります。
 
そして、どのような仕事にも必ず「宛先」が存在すると思っています。

宛先を探し、思いやってこそ、はじめてひとつの作業や動きが、仕事となる気がします。

自分の身の回りの小さな範囲に責任を持って、時に宛先や在り方に迷いながら、時にぼんやりしながら、余白珈琲という場で起こる様々な出来事を眺めていたいと思います。

 

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